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作曲家 大中 恩

生誕100年記念 メモリアルイヤー

​大中 恩作曲家人生

パノラマシティビュー
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恩とその母に贈る

大中 寅二 筆

​左上:

​パパと云う言葉を何と思ふらん

大中 寅二 筆

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​右下:

チャボとママとはお留守番なりき 大正十四年

大中 寅二 筆

誕生  

1924(大正13)年に東京で生まれる。

 

父は「椰子の実」で知られる作曲家、大中 寅二。師匠の山田耕筰が設立した日本初のオーケストラで打楽器奏者として活躍し、霊南坂教会のオルガニスト兼聖歌隊指揮者でもあった。そして母の文子さんは、同じ教会の保育園の保母だった。

 

母は、恩を作曲家にしたい気持ちがあったが、父の寅二は英才教育には反対していた。
 

『男というのは、自分で行き先を決めるものだ。親の言うことをおとなしく聞くような人間になるな』というのが父寅二の持論だった。

父親は放任主義だったが、流行の童謡を歌うのは禁止。師匠である山田耕筰さんの歌か、自分の作曲した童謡しか恩へ歌わせてくれなかった。

 

ただし、寅二が自分が指揮をしている聖歌隊では自由に歌わせていた。煩雑な音楽で恩の耳を濁らせたくなかったという気持ちだったのだ。

幼少期 

大中一家は教会の近くに住む。

母、文子(ふみこ)は教会の付属幼稚園で保母として働く。恩 1歳の頃より、父・寅二はドイツに留学。

一年間の留学中は当時、台湾(当時日本領)から居を移していた母・文子の実家で母子共に過ごす。

父が帰国後、恩は何かの折 𠮟られた際「パパはドイツに帰れ」と言い放ち、負けず嫌い!?の面目躍如。

寅二の人柄を慕う人々がいつも訪れ、寅二もまた旺盛なサービス精神でもてなした。

父は息子(恩)に‟チャボ”とニックネームで呼び「チャボ、踊ってみなさい」と言うと、息子(恩)は おしゃれかつ面白い踊りを喜んで披露した。

親子の扮するピエロの踊りは人気を博し、昼も夜も笑い声と歌声が絶えなかった。

​母の勤務する霊南坂幼稚園へは出勤する母と共に、恩は入園の年齢になる前より通いはじめ、休日(日曜日)も聖歌隊のボーイソプラノとして歌い、合唱に夢中になってゆく。

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​学生時代・出会い・家族ができるまで

進路決定には、聖歌隊ソプラノ歌手である御姉様の

「音楽も神の言葉を伝えること」

という一言で、人生の道に迷いがなくなった。

1942年に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)作曲科入学。

​合格発表を見届けた直後より、病を得て2,3か月の絶対安静の時期を過ごした。学校に通えるようになったのは6月くらいだった。

1944年、学徒動員で海軍に入り8か月で少尉になる。

父(寅二)が満洲へ演奏旅行へ出ている間に、代理として三越(日本橋)の合唱団へ指導に赴いた折に、田村恵子と出会った。

1945年、田村恵子と結婚。

翌年長女、菫(すみれ)誕生。

二年後次女、ナオミが誕生する。

父となった恩は女の子を授かったことに、心からほっとした。

​作曲家として

1955年 中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。

以後こどものための音楽をライフワークとし、精力的な活動を続けた。

1957年 混声合唱団「P・Fコール」(1946〜1955)の活動を経て、「ゴールMeg」を結成。

全国で合唱界の名声を博す。1987年に解散。

 

1961年 第1回「歌曲の夕べ」を畑中良輔、岡部多喜子、中村浩子などの協力をえて開催。

以後、生涯にわたり「歌曲の会」を開催し精力的に作品を発表した。

 

1965年 第1回「おさの会」(阪田寛夫との協作、共催)にてミュージカル「世界が滅びる」、

音楽詩劇「イシキリ」を観世栄夫、市原悦子等の協力により発表。以後、回を重ね作品を発表した。

 

1968年 大中恩作曲による女声合唱団としてコールグレースを発足。生涯にわたって指導と

作品発表の演奏会を重ねた。

 

1997年 「爽やかコーラス」創設。

のち「メグめぐコール」として演奏会を生涯にわたって積み重ねた。

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