作曲家 大中 恩

100TH

​ANNIVERSARY

​大中 恩の作曲家人生

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生誕

父は作曲家でオルガニストの大中寅二である。

寅二は24歳のとき、東京赤坂霊南坂教会の聖歌隊の指揮者及び
オルガニストになる。
寅二28歳のとき、姫野文子と結婚。

1924年(大正13年)7月24日、恩 誕生。
誕生後、重い黄疸のため、父母を心配させた。

幼少期

大中一家は教会の近くに住む。

母、文子(ふみこ)は教会の付属幼稚園で保母として働く。

恩 1歳の頃より、父・寅二はドイツに留学。

一年間の留学中は当時、台湾(当時日本領)から居を移していた母・文子の実家で母子共に過ごす。

父が帰国後、恩は何かの折 𠮟られた際「パパはドイツに帰れ」と言い放ち、負けず嫌い!?の面目躍如。

寅二の人柄を慕う人々がいつも訪れ、寅二もまた旺盛なサービス精神でもてなした。

父は息子(恩)に‟チャボ”とニックネームで呼び「チャボ、踊ってみなさい」と言うと、息子(恩)は おしゃれかつ面白い踊りを喜んで披露した。

親子の扮するピエロの踊りは人気を博し、昼も夜も笑い声と歌声が絶えなかった。

​母の勤務する霊南坂幼稚園へは出勤する母と共に、恩は入園の年齢になる前より通いはじめ、休日(日曜日)も聖歌隊のボーイソプラノとして歌い、合唱に夢中になってゆく。

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​学生時代~出会い~家族ができるまで

進路決定には、聖歌隊ソプラノ歌手である御姉様の

「音楽も神の言葉を伝えること」

という一言で、人生の道に迷いがなくなった。

1942年に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)作曲科入学。

​合格発表を見届けた直後より、病を得て2,3か月の絶対安静の時期を過ごした。学校に通えるようになったのは6月くらいだった。

1944年、学徒動員で海軍に入り8か月で少尉になる。

父(寅二)が満洲へ演奏旅行へ出ている間に、代理として三越(日本橋)の合唱団へ指導に赴いた折に、田村恵子と出会った。

1945年、田村恵子と結婚。

翌年長女、菫(すみれ)誕生。

二年後次女、ナオミが誕生する。

父となった恩は女の子を授かったことに、心からほっとした。

​作曲家として

1955年 中田喜直、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。

以後こどものための音楽をライフワークとし、精力的な活動を続けた。

1957年 混声合唱団「P・Fコール」(1946〜1955)の活動を経て、「ゴールMeg」を結成。

全国で合唱界の名声を博す。1987年に解散。

 

1961年 第1回「歌曲の夕べ」を畑中良輔、岡部多喜子、中村浩子などの協力をえて開催。

以後、生涯にわたり「歌曲の会」を開催し精力的に作品を発表した。

 

1965年 第1回「おさの会」(阪田寛夫との協作、共催)にてミュージカル「世界が滅びる」、

音楽詩劇「イシキリ」を観世栄夫、市原悦子等の協力により発表。以後、回を重ね作品を発表した。

 

1968年 大中恩作曲による女声合唱団としてコールグレースを発足。生涯にわたって指導と

作品発表の演奏会を重ねた。

 

1997年 「爽やかコーラス」創設。

のち「メグめぐコール」として演奏会を生涯にわたって積み重ねた。

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